京都市中京区三条通 |
21世紀最大の出来事21世紀の最も大きな出来事は、原子力の利用よりも、宇宙への進出よりも、I・T(情報技術)の開発普及であるといわれます。21世紀にはこれが、社会、経済、生活に計り知れない大きな影響を、及ぼすものであることは疑う余地はありません。 現に携帯電話は私達になくてはならないものになり、インターネットで世界中のあらゆる情報が瞬時に得られるようになりました。 また人ゲノムの完全な解明は間近であり、約4万の遺伝子の配列を調べることにより、ガンや遺伝的な病気の治療に役立つ反面、ヒトの受精卵から、人体の臓器の何にでもなるES細胞という万能細胞を使えば、クローン人間をつくることもできるのであり、科学はここまで到達しました。 21世紀はまさにI・Tの時代であり、人間の生活に必要な物の生産、流通、販売、消費に大きな影響を与え、社会、経済、政治を変えようとしています。このことは産業革命以上の大きな変革であるといっても過言ではないのですが、大きな時流の渦中にある私達は案外、実感としてそのことに気づいていないのではないでしょうか。 コミュニケーションもビジネスも、速いスピードで低コストで展開されるようになります。生活も経済も大きく変わり、利潤の追求は一層激しくなりますが際限のない物欲の追求や、富の蓄積は必ずしもより良き社会や幸福につながるものでないことを、認識しなければならないと思います。 同時に科学・技術の発展が、人としてのあるべき姿、また価値観にかかわることのない、人間性そのものにも影響を及ぼすおそれも否定できません。 21世紀は人間の行為や社会のありかた、心や倫理について考えなければならない時代ではないでしょうか。 生活とは世の中に生きて暮らしていくということですが、現在私達が普通と思っている暮らしは、ついニ〜三十年前とは比べものにならない程の変わりようです。 科学・技術の進歩と国民のひたむきな努力によって、戦後我が国は、奇跡的ともいわれる繁栄をみましたが、過熱した経済は破綻をきたし、バブル経済は崩壊しました。そして未だに厳しい不況下にあるとはいえ、私達の生活は有史以来、父祖たちがかつて経験したことのない、恵まれた生活を続けています。 昭和初期の生活ちなみにここで太平洋戦争以前のことを、おぼろげながら知っている世代として、当時のことを回顧してみるのも無駄ではないとおもいます。 我が国においては終戦(1945年)以前、また戦後の総ての物質のなかった時には、まず薪を燃やして飯を炊き、炭をおこして湯を沸かし、冬ならそれで暖をとって一日が始まりました。夜になれば一つの火鉢を囲んで家族全員が手をかざし、電灯は必要な時に必要なところにだけつけ、廊下やトイレはその時だけ、薄暗い電灯をつけました。 ラジオが普及してきたのが昭和十年ころからであり、一家に一台のラジオを家族全員で聞いたのでした。こうした生活ではありましたが、家族は親を中心にして、一定の秩序のもとにしっかりとした連帯感があり、親子・兄弟のつながりや、お互いを思いやる心は深いものがありました。家族、一家が社会の一単位として有効に機能し、家族制度のよしあしは別として、社会は安定し平穏でした。 現在の豊かで便利な暮らしこれに対して現在の私達は、朝起きたときから冷暖房によって快適な状態で目覚め、スイッチを入れておけば飯は炊けており、湯は常に沸いていて、冷蔵庫の中には必要な食料品が詰まっている。 好みの食事をとり、マイカーで出勤する人も少なくありません。仕事では、新幹線や飛行機で移動し、携帯電話は体の一部といえるほどのものになり、インターネットで情報を収集しビジネスが行われます。 夜は家中どの部屋も明々と照明され、トイレの中でも十分読書ができる程の明るさです。食事はカロリーの採り過ぎで、肥満や病気に注意しなければならないほどであり、テレビはどのチャンネルもグルメ料理と食べ歩きが必ずでてきます。まさに飽食の時代です。レストランなどでは、食べ残すのがエチケットと思っているような食べ方です。 ”もったいない”という言葉も心も知らず、死語となりつつあるようにさえ思われます。”もったいない”とはそのものの持つ価値、大切さ、値打ちが十分に生かされず発揮されずに、捨てられたり壊されたりしてしまうことを惜しむことです。 モノは経済的にだけ考えれば、買えば自分のものであり、捨てても壊しても心にとがめる事はないのですが、すべてのものは自然の恩恵によって産まれたものであり、人間もまた例外ではありません。こう考えればモノは自己と対等の価値、関係であり、”もったいない”という思い感情がおのずからうまれるのです。 私達が生活のために消費する食料・衣料・燃料等々、消費するエネルギーは十数メートルの恐竜一頭分に相当するといわれます。この狭い日本に一億二千万頭もの恐竜が住んでいるのです。 エネルギーの消費は日、米、欧の先進工業国において著しいのですが、発展途上国においても、豊かな生活を求めて、猛烈な勢いで工業化への道を走り出しています。これらによる地球規模の公害、温暖化、環境の汚染、激変は人類の存亡にかかわる事態に立ちいたっています。 温暖化・環境汚染・公害平成十年二月に京都で開催された地球温暖化防止会議は、各国の利害関係によって難航した末、やっと合意した二酸化炭素の削減目標値の具体的な内容を話し合うために、その後オランダのハーグで開かれた会議は合意を得られず決裂しました。地球温暖化の影響は気候が不安定になることの社会的影響が、世界に及ぶことの方が大きいといわれていますが、我が国では西日本で亜熱帯高気圧による干ばつが起こる可能性があると学者はいっています。 大気中のCO2濃度が上がれば地球は暖かくなり、人口は増加するが、反対に、耕作できる土地は減り、世界的に問題をかかえている人口問題、食糧問題が更に深刻なものになります。 豊かで便利な生活を実現し、物欲を満たすことが幸福につながると思い込んだ人間は、巨大化した資本によって、大量生産、大量宣伝、大量消費、大量廃棄の経済システムにのって、世界的なエネルギーの消費拡大が続き、世界中で異常気象、公害が発生しています。 自然環境の破壊が続けば、自然の自浄力では修復できず、被害は地球規模でおこってきています。世界の人々が地球環境を考えずに、今までの状態でエネルギーを消費し、公害を出して環境汚染が続けば人類は今後千年以内に災害か、地球温暖化で滅亡すると、世界的物理学者であるイギリスのホーキング博士は警告しています。 また環境ホルモン(内分泌かく乱物質)の問題について、「母体に蓄積されたP・C・Bやダイオキシンに、胎児は影響を受けやすく、生殖能力や脳の働きが遅れるなどの異常を起こす化学物質は、地球上にあふれている。化学産業のあり方を根本的に考え直さなければならない」と環境ホルモンについて指摘した ”奪われし未来”の著者米国のジャーナリスト、ダイアン・ダマノスキ氏が滋賀県で開かれた世界湖沼会議で語っています。 私達はこれらの警告を真剣に受け止めて、環境問題への認識を新たにし、浄化への努力を重ねなければならないのです。 人間は大自然の中で生かされている生きものである人間をはじめとする命あるものは、大宇宙、大自然の中に生を受け、生かされているのです。 地球上に存在する全ての生物は、命のかけらさえもなかった無機質の太古の海の中で生まれ、その後四十億年の長い時間、複雑な進化の過程を経て現在の人類に到達したのです。このことは生命体としてたどりつく、必然的な道のりなのか、あるいは全くの偶然、奇跡、突然変異が度重なっての結果であるのかを、明確にすることは困難であるとされています。 人類の歴史は生命進化の永い歴史から見ればほんの一瞬でしかないのですが、それでも人間は何万年もの間、地球上の非常に広い地域に少数の人が散在していたのが、この数千年の間に急激に文明が起こって、大都市に人口が集中しました。 しかし人間の行動の遺伝子の基礎は、数万年の間に作られたのであり、文明の数千年の激変には急に対応できないのは当然で、人間の体の基本的なところで、ひずみができてきているといわれます。 このことは自然体験を多くもつ子供は、正義感が強いということであり、こうしたことを考えあわせると多発する現今の社会問題、いじめや殺傷事件、親子の断絶などは自然から遠のき過密からくるストレスが原因の一つと考えられます。 さらに最近の生活では、病的とも思えるほどの清潔感から、野原や土の上は汚いというひとがあるが、人間が母な大地から遠ざかってよい訳がない。現在の感覚のなかには、我々が自分自身を自然の一部でなく、人工物の一部のように考えているのではないかと思われることさえあります。 現在の都市での便利で快適な生活は、夜空の月や星を仰ぎ見ることも少なくなり、いつでも一年中の季節の野菜や果物があり生活の中のハレとケ(祝日、祭日などの特別の日と日常、普段の日)のけじめもかつてほどでなくなり、感受性、季節感も低下したと思われます。 こうしてみれば便利で快適な生活は、生き物としての本来的なものから遠ざかり、人間は弱くなり、そしてコントロールのきかない性質になってしまったのでわないでしょうか。 今後情報化、高齢化がますます進むなかで、私達は科学・技術の恩恵に浴しつつ、弱くなりひずみがでていることに対応するには、野生の良さと、たくましさが必要になると思われます。 大自然を畏れ敬った先人たち私達の遠い祖先は大自然と共に生き、自然を畏れ敬って素朴な実感として、大空や海、山、水、また太陽や月に神がおられると信じてきました。このことはかつて言われたような未開の無知なものではなく、英知であり知的な認識です。自然界、自然物に神がおられ、神のお働きがあると考えることは、科学的にも決して誤りではなく、物理や化学がそれを究明してきています。またこの認識は東洋の思想、宗教に共通してみられます。 仏教では ”森羅万象ことごとく仏性あり”と説いていますが、これは宇宙に存在する全てのものは、みな仏であることの素質を持っているということであり、神道の自然観とも共通です。 物理の法則はこのとこをのべています。物質の質量はエネルギーであり、物質が完全にエネルギーに変化すれば莫大な量のエネルギーになる、という原理は石にも木にも水にも空気にも当てはまるのであり、それらはいづれも姿形そのままにしても、エネルギーに変化しても、限りない恩恵を人間に与えてくれているのであり、神のお働きがあり、あるいは仏性ありと認識するのは、きわめて当然なことと私は考えます。これは東洋の思想、宗教の根底であり、21世紀が心・精神・宗教の時代といわれる中で極めて大切な思考です。 次に考えなければならないのは、前世紀までのようにすべて進むことのみが進歩であると考えるのではなく、新しい進化の形をさぐりもとめなければなりません。それは自分自身が自己規制することであり、環境対策や人口問題など人類のすべてが、未来のためにセルフコントロールしなければならないということです。 地球全体、全人類のことを考えて、自らの欲望をコントロールすることが必要な時代になたのです。 唯 吾 知 足 「われただたるを知る」これは古くからある格言ですが、今まさにこれが最も必要なのです。そして現在このようにあることを喜び、感謝する心が大切なのです。ここで言う足るを知るとは、人間は誰しも欲望がありますが、これのみを追求していては、喜びも生まれません。それがかなわなければ不平、不満におちいります。今日のように豊かで恵まれた社会では、生きがいや喜びは物やお金よりも、心にひびく感動です。感動は人と人とのふれあい、生き物とのふれあい、芸術などですが、日本人の心には歳時記にもみられるように、自然の風物や、季節の移り変わりも生活の中に取り入れて、楽しんできた伝統的なすぐれた感覚があります。それを持ちつづけることが、新しい生き方にもかなうのです。 祈りと21世紀への展望21世紀を展望するに際して、私が人生の大半を生きた20世紀を振り返ってみたいと思います。西洋の文明によって導かれた近代主義は、人間が自然を征服し、支配してそこから富を得ることを目的をし、そのことが現在の物心両面の危機を招き、人類の生存にとって危険な思想であると考えられるようになりました。しかし今なお、この現状に至っても、クローン技術などによって、生病老死へ挑戦し勝利したと考え人間をモノとしかみない学者や風潮に背筋の寒くなる思いがするのも事実です。 さて、私達が今後生きる21世紀の諸条件は、決して楽観できるものではないと思われます。I・Tの時代になても、生活の内容そのものがそれほどよくなるとは考えられませんが、社会の行く末は現在のように不透明で、混乱したものでなく、明るく展望したいものです。 それでは今後、何をなすべきか、何ができるのかについて考えたいと思います。 21世紀は前世紀の反省にたって、心の時代、精神の時代、そして宗教もふくめた文化の時代といわれます。このことは神に祈るということです。祈りとは心で念じ、また言葉に出して願うことです。 言葉に出して祈るのが「言霊信仰」です。言葉の中に神の霊力、お働きがあって祈り願ったことが、そのとうり実現するという信仰です。良い発音、響の名前をもつ子供は、幼少期にいつもその名前を呼ばれることで脳の働きがよくなり、指数の高い子になります。これは、医師、学者の研究です。 今一つ「心で祈り念じる」ということは、神のお力と御守護を願うと同時に、自己の持つ霊力、エネルギーを倍加するのです。神の御加護を合わせて本来自分の持っている霊力、能力、エネルギーと合わせて、自分の力の何倍、何十倍にもなって、苦難を克服することができるのです。神に祈るということは、自分自身の持つ力を自ら何倍にも増加するのです。これが祈りです。神仏に祈る心のない人は、時として自分の持つ力さえ、十分に発揮できません。 社会を構成し経済活動をしているのもすべて人です。この人の祈りの力、エネルギーが21世紀の活力となり、より良き社会へと導く原動力となります。 人間は自然、宇宙の一部であり、大自然の中に生かされている存在であることは、述べてきたとうりであります。人間の心、精神は最終的には、宇宙と自己の一体性を感じることによって救われ、安心立命を得るのです。 このことは古より宗教者、聖賢の求めた道であり、洋の東西の哲学においても認識されている真理です。 21世紀は進みすぎた科学文明を反省して、心、精神、文化が歴史の主流になる世紀です。 .平和な発展と繁栄を神にお祈り申し上げます。
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